【シリーズ:自爆する日本】「人命」を押し出す鳩山内閣が「人材」を軽視する恐ろしさ
∋・ー・∈です。
先の記事で批判した「事業仕分け」の問題点は、一言で言えば戦略性の欠如した削減予算の「抜き取り」でした。戦略に基づいて設計された複数事業間の関係性を無視して、個別の事業を批判することで予算を削り、本来の戦略全体を毀損する恐れがあることと、戦略そのものを見直すのであれば、それは非専門家の仕分け人の仕事ではないことを指摘しました。
今回は、「事業仕分け」がもたらした結果と、鳩山内閣の理念との相違を指摘します。
鳩山首相は首相官邸ブログで「コンクリートから人へ」という言葉が財政方針の中心である、と表明しています。
コンクリートから人へ - 首相官邸ブログ
しかし、一方で「仕分け作業」の場では、大学の高度教育や先進技術の研究開発といった分野の予算から小学校の英語教育まで「そもそも論」に近い形で「必要性がよくわからない」などとして、予算カットが行われています。
これはいったい、どういうことでしょうか。
私も当初「コンクリートから人へ」という言葉は、公共工事の削減を表すだけのキーワードなのだと考えていました。すなわち、その言葉には「物的投資から人的投資へ」の意味も含まれているものだと受け取っていたのです。しかし蓋を開けてみると、補正予算停止で雇用対策の緊急人材育成をストップさせたのを皮切りに、仕分けでも次々に人的投資の予算をカットしていくではないですか。
スーパーコンピューターも、スプリング8のような施設も、研究のための人的投資である、という側面があります。複雑な計算を要する高度な研究は、スパコンの処理速度が研究レースの勝ち負けを左右するだけでなく、1年間に研究可能な事項の数すら決めてしまいます。国家規模でしか建設不可能な大型、高度な施設の予算削減は、その安定した運転に影響を及ぼし、施設の利用権をプラチナチケット化してしまい、研究に携われる人間をも削ってしまいます。
また、そもそも仕分け作業のような形で「利益/リターン」を前面に押し出した議論が行われることで、日本の研究者は予算がつくかどうかわからない「直接の利益が説明できなそうな研究」を回避せざるを得なくなるでしょう。
こうした「仕分け事業」の行いを見ていると、ある疑念にたどり着かざるを得ないのです。
その疑念とは、鳩山内閣の価値観では、「人」とは「人命」であって、「人材」ではないのではないか、ということです。
しかし、「人命」はそこにあるだけで国家を富ませることが可能なものではありません。国家を富ませる「人」とは、人命を守り、育てたことによって得られる「人材」です。国民ひとりひとりをただの「人命」ではなく、かけがえのない価値を持った「人材」へと育てることこそ国家繁栄の道筋です。そして同時に、すべての「人=人材」を失いがたい国家の柱と位置づける経営的価値観こそが、宗教的倫理観に基づかない国家の経済運営においても「個人」を尊重させ、コストをかけて守らせるのです。
為政者がひとりひとりの人間、それを「大きなコストを投じて育てた、国家にとって重要な一つ一つの人材、財産」としてカウントしていくか、ただ「(尊い)人命」とだけ考えているか。倫理の問題のようにも思えますが、これは非常に重要な点です。
なぜならば、国家にとって「人命」は「人材」よりもはるかに低い時間的・経済的コストで生産可能だからです。倫理的に問題ある物言いですが、しかしこれは間違いのない事実です。人体にはじめから子を宿し産み落とす機能が備わっている以上、「人材」が「人命」に経済的付加価値を付与した結果得られるものである以上、国家にとって「人命」は「人材」より遥かに安く手にすることができる存在です。
それゆえ、「人命」を権力から守るものは、最終的には倫理しか存在しません。しかし残念ながら、倫理というものはあくまで内心のものであり、主観的な感覚であり、また容易く変動するものでもあります。内心のものである倫理の留め金が緩んだとき、「人」に向けられるのは経済という「現実の感覚」です。だからこそ、経済の側からも「人」に資産的価値を見いだす「人材」の観点は、政治から失われてはならないのです。
人は人命をもち、付加価値を与えられて人材となる。故に人命は倫理的観点によって守られ、人材は経済的観点によって守られる。国家権力には、その片方ではなく、双方を重視することが求められるのです。
わずか65年前、日本は戦争のさなかで「人材」を使い果たしました。訓練や経験を重ねた優秀な兵士の価値を軽く見て、その戦力を「玉砕」前提の遅滞戦闘に浪費しました。熟練した機械工を前線に送り込み、兵器の生産を学生工員に任せました。
結果、我が国は「人材」を活用して有利に戦うことができなくなりました。大きなコストを投入した「人材」を要求される高度な作戦は採用することが不可能となり、最終的に特攻という形で、「人命」そのものを武器として活用することを選ばざるを得なくなったのです。
あのころの日本が、仮に「人命は尊い」という倫理が停止した状況であったとしても、「人材育成には高いコストを要する」という経済感覚が残っていれば、勝利の見込みがどこにも見いだせないままに人材が次々に失われていく時点で、損益分岐を割ったと見て引く判断も可能だったのではないか、と考えます。
鳩山内閣は、「人を大事にする」という言葉を掲げ、引き換えに「人材」を軽視する政治を行おうとしています。
昨今の派遣社員問題というものは、企業が「人材」育成コストを負担することなく、「人手」すなわち「人命」を活用した経済を展開しようとした結果だとも言うことができます。
ここで国までが人材という観点を喪失してしまっては、日本は世界経済の中で何を武器にすることになるのでしょうか。
それを想像すると、とても薄ら寒い気持ちになるのです。
先の記事で批判した「事業仕分け」の問題点は、一言で言えば戦略性の欠如した削減予算の「抜き取り」でした。戦略に基づいて設計された複数事業間の関係性を無視して、個別の事業を批判することで予算を削り、本来の戦略全体を毀損する恐れがあることと、戦略そのものを見直すのであれば、それは非専門家の仕分け人の仕事ではないことを指摘しました。
今回は、「事業仕分け」がもたらした結果と、鳩山内閣の理念との相違を指摘します。
「コンクリートから人へ」という言葉
鳩山首相は首相官邸ブログで「コンクリートから人へ」という言葉が財政方針の中心である、と表明しています。
コンクリートから人へ - 首相官邸ブログ
鳩山内閣の国の財政に関する方針は、「コンクリートから人へ」です。これまでの箱もの中心の予算から、みなさまの雇用と暮らしを守る予算に変えていきます。乞うご期待ください。この言葉は、所信表明演説でも使われていました。鳩山内閣の姿勢を示す重要な言葉のはずです。
しかし、一方で「仕分け作業」の場では、大学の高度教育や先進技術の研究開発といった分野の予算から小学校の英語教育まで「そもそも論」に近い形で「必要性がよくわからない」などとして、予算カットが行われています。
これはいったい、どういうことでしょうか。
私も当初「コンクリートから人へ」という言葉は、公共工事の削減を表すだけのキーワードなのだと考えていました。すなわち、その言葉には「物的投資から人的投資へ」の意味も含まれているものだと受け取っていたのです。しかし蓋を開けてみると、補正予算停止で雇用対策の緊急人材育成をストップさせたのを皮切りに、仕分けでも次々に人的投資の予算をカットしていくではないですか。
スーパーコンピューターも、スプリング8のような施設も、研究のための人的投資である、という側面があります。複雑な計算を要する高度な研究は、スパコンの処理速度が研究レースの勝ち負けを左右するだけでなく、1年間に研究可能な事項の数すら決めてしまいます。国家規模でしか建設不可能な大型、高度な施設の予算削減は、その安定した運転に影響を及ぼし、施設の利用権をプラチナチケット化してしまい、研究に携われる人間をも削ってしまいます。
また、そもそも仕分け作業のような形で「利益/リターン」を前面に押し出した議論が行われることで、日本の研究者は予算がつくかどうかわからない「直接の利益が説明できなそうな研究」を回避せざるを得なくなるでしょう。
こうした「仕分け事業」の行いを見ていると、ある疑念にたどり着かざるを得ないのです。
その疑念とは、鳩山内閣の価値観では、「人」とは「人命」であって、「人材」ではないのではないか、ということです。
人命の重視、人材の軽視
人命の重視、それは大変に美しく、また重要なことです。しかし、「人命」はそこにあるだけで国家を富ませることが可能なものではありません。国家を富ませる「人」とは、人命を守り、育てたことによって得られる「人材」です。国民ひとりひとりをただの「人命」ではなく、かけがえのない価値を持った「人材」へと育てることこそ国家繁栄の道筋です。そして同時に、すべての「人=人材」を失いがたい国家の柱と位置づける経営的価値観こそが、宗教的倫理観に基づかない国家の経済運営においても「個人」を尊重させ、コストをかけて守らせるのです。
為政者がひとりひとりの人間、それを「大きなコストを投じて育てた、国家にとって重要な一つ一つの人材、財産」としてカウントしていくか、ただ「(尊い)人命」とだけ考えているか。倫理の問題のようにも思えますが、これは非常に重要な点です。
なぜならば、国家にとって「人命」は「人材」よりもはるかに低い時間的・経済的コストで生産可能だからです。倫理的に問題ある物言いですが、しかしこれは間違いのない事実です。人体にはじめから子を宿し産み落とす機能が備わっている以上、「人材」が「人命」に経済的付加価値を付与した結果得られるものである以上、国家にとって「人命」は「人材」より遥かに安く手にすることができる存在です。
それゆえ、「人命」を権力から守るものは、最終的には倫理しか存在しません。しかし残念ながら、倫理というものはあくまで内心のものであり、主観的な感覚であり、また容易く変動するものでもあります。内心のものである倫理の留め金が緩んだとき、「人」に向けられるのは経済という「現実の感覚」です。だからこそ、経済の側からも「人」に資産的価値を見いだす「人材」の観点は、政治から失われてはならないのです。
人は人命をもち、付加価値を与えられて人材となる。故に人命は倫理的観点によって守られ、人材は経済的観点によって守られる。国家権力には、その片方ではなく、双方を重視することが求められるのです。
【自爆】人材を軽視した結果、人命を武器にした日本
日本は、「人材」を軽視した結果としての「自爆」を既に経験しています。わずか65年前、日本は戦争のさなかで「人材」を使い果たしました。訓練や経験を重ねた優秀な兵士の価値を軽く見て、その戦力を「玉砕」前提の遅滞戦闘に浪費しました。熟練した機械工を前線に送り込み、兵器の生産を学生工員に任せました。
結果、我が国は「人材」を活用して有利に戦うことができなくなりました。大きなコストを投入した「人材」を要求される高度な作戦は採用することが不可能となり、最終的に特攻という形で、「人命」そのものを武器として活用することを選ばざるを得なくなったのです。
あのころの日本が、仮に「人命は尊い」という倫理が停止した状況であったとしても、「人材育成には高いコストを要する」という経済感覚が残っていれば、勝利の見込みがどこにも見いだせないままに人材が次々に失われていく時点で、損益分岐を割ったと見て引く判断も可能だったのではないか、と考えます。
鳩山内閣は、「人を大事にする」という言葉を掲げ、引き換えに「人材」を軽視する政治を行おうとしています。
昨今の派遣社員問題というものは、企業が「人材」育成コストを負担することなく、「人手」すなわち「人命」を活用した経済を展開しようとした結果だとも言うことができます。
ここで国までが人材という観点を喪失してしまっては、日本は世界経済の中で何を武器にすることになるのでしょうか。
それを想像すると、とても薄ら寒い気持ちになるのです。
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【シリーズ:自爆する日本】事業仕分けに見る、戦略を欠いた政治
∋・ー・∈です。
さんざんTwitterでも騒がれた「事業仕分け」ですが、問題点がだんだんと明確になってきたので【自爆する日本】シリーズ第二弾として纏めてみました。
「仕分け」前半最終日、GXロケット廃止要求 - YOMIURI ONLINE
しかし、GXロケットの開発は、H-IIA/B型ロケットがあれば行わないでいい、という性質のものではありません。
まず第一に、IHIの担当であったGXをただ単純に廃止することにより、日本のロケット産業がH-IIA/B型ロケットを生産する三菱重工1社の独占状態に陥ってしまうという問題があります。GXが単純に廃止されれば、液体燃料ロケット開発の人材は三菱に集中せざるを得ません。技術的な硬直や、ポジション不足による技術者の流出、さらには国内に競合が存在しないことで、将来的に費用見積もりの主導権問題も出てくるでしょう。
第二に、GXはH-IIA/Bと異なる推進系技術を採用している点を指摘します。一段目は海外製、二段目は世界初のLNGエンジンです。H-IIA/Bの液水液酸とは技術的な根幹が異なるため、H-IIA/Bロケットのプロジェクトに問題が生じた場合にも、中小型衛星の打ち上げ選択肢を確保できる可能性がありました。
プロジェクトとして問題が多く、コスト面での目標達成が困難なGXの企画を廃止することそのものについては政治の一つの選択として受け入れるべきですが、GXの企画に問題があったことをもって、GXという「H-IIA/Bとは異なる会社・技術による、中小型ロケット」の開発を必要とした理由がすべて消滅したわけではありません。GXに投入予定だったお金を「ムダが浮いた!」と言って子ども手当て等に使ってしまうのでは、そこを履き違えているという批判を免れ得ません。
例えて言うならば、通信教育教材を数ヶ月取って成果が上がらないからと言って、「ウチの子どもは勉強しなかった!この子は頭が悪いんだ!お金がもったいないからやめて私がヨガでも習おう!」という結論を出してしまうようなものです。この場合、通信教育で成果が芳しくないからと、家庭教師や学習塾などの他の選択肢を検討しないということは「子どもに高度な教育を受けさせる」という家庭の戦略的目標を放棄すること同義です。
「成果が出ないから止める」という判断と「何もしなくてよい」という判断を混同してはいけないのです。宇宙開発戦略本部による8月の「見解」では、GXプロジェクトそのものの見通しは否定していますが、同規模ロケットに対する需要の存在を否定しているわけではありません。
GX ロケットの今後の進め方について - 宇宙開発戦略本部
GXの単純廃止は「仕分け」作業という末端の事業可否の判断で、国家の宇宙戦略という大きな枠組みを破壊することになってしまいます。「浮いた」予算額を、「失敗作」であるGXで達成すべきだった戦略目標を達成するために使うのでないならば、まずは「主力と異なる技術・企業体による中小型ロケット開発」という戦略レベルについて要不要の議論をしなければならないはずであり、それは非専門家集団である「仕分け人」に任せるべき仕事からは明らかにかけ離れています。
私には、各個の事案に対する結論よりも、「戦略を揺るがす判断」が、「個別事業の意義を問う形」で行われる構造こそ「事業仕分け」の重大な問題点だと思えてなりません。
また、仕分け人はGXロケットに搭載されるLNGエンジンそのものの予算請求も見送りました。
行政刷新会議「事業仕分け」事業番号3-33 (独)宇宙航空研究開発機構①(GXロケット)
LNGエンジンは数多の技術的メリットが明確でありながら世界のどの国も実用化できていない、先端技術です。そして、このLNGエンジンの技術において、現在日本はトップクラスのノウハウを持っており、世界でもっとも実用化に近いポジションにいます。
日本はLNGエンジン開発で世界のトップを走っている - nikkei BPnet
に見直し」を求めていますが、「まだ誰も成功していないが、世界が必要とする技術」の最先端にいるJAXAに対し、実用化の意味を抜本的に見直せ、とはとんだお笑いぐさです。こうしたオリジナルの技術を政府が戦略に基づいて育成してこそ、税金を投入したことへの「収益・リターン」が生まれるのです。
しかし、そうした言葉が飛び出したとき、「高すぎる」という言葉の「すぎる」の比較対象が何なのか、といった質問を返すインタビュアーは、残念ながら見たことがありません。
すぎる、と言うからには、世界各国と比較でもしたのでしょうか?
自分の勤める会社ならば、幾らで実施できる、というような確固たる根拠があるのでしょうか?
おそらく、この「高すぎる」という漠然たる感覚。これが「国民目線」なのでしょう。「国民目線」で見て「高すぎる!」と直感したものを削るのが、仕分け人の役割なのでしょう。だからこそ蓮舫議員は、事業から「利益」を上げることにこだわるのでしょう。彼女にとって「高すぎる」かどうかの基準が、「そこから幾らの利益が上がるのか」だからです。そこからは、「戦略」という観点が完全に失われています。
政府の予算配分とは、国の生き残り戦略そのものを端的に表現するものでなければならないはずなのです。政府の予算は全体でこれだけです。そのうち、防衛に何パーセント、国民福祉は何パーセント、インフラ投資は何パーセントで科学技術に何パーセント使うことで、こんな繁栄を導きます、という説明を選挙に際して耳にしましたか?
この割合を議論する場は、その法的位置づけも曖昧な「事業仕分け」などではなく、国政選挙の場でなければならなかったのではないでしょうか。「政権交代」は、こうした配分の戦略を示し合って、その妥当性で争われるべきだったのではないでしょうか。
「財源は必ず見いだせます」の一点張りで成立した鳩山政権は今、「戦略」の具体的な議論を一切しないまま、「戦略」の存在を無視した予算削減劇を演じ、捻出した予算はその割り当てを破壊し、戦略的位置づけの不明確な「子ども手当て」実現のために使おうとしています。「聖域を作らない」という言葉は、一見すると革新的なように見えますが、そこに見いだせる現実は「政府として守るべき、確固たる戦略が存在しない」というだけなのです。
しかし、今、こうした政治が行われる責任は、現政権だけにあるとは思えません。
選挙に際し、有権者が戦略的な観点について興味を持たないから、こういうことになるのです。有権者が国家の戦略について、政治家にまともな議論を求めないから、こういうことになるのです。
どんな日本にしたい?という問いをシンプルな2択から選ぶことが、2大政党制最大のポイントのはずです。しかし、その2択がどちらもまばゆい、磨き上げられたものになるかどうかは、有権者の意識にかかっているということを意識しなければ、待つのは自爆です。
行政刷新会議事業仕分け対象事業についてご意見をお寄せください
さんざんTwitterでも騒がれた「事業仕分け」ですが、問題点がだんだんと明確になってきたので【自爆する日本】シリーズ第二弾として纏めてみました。
「事業仕分け」は戦略喪失の象徴
今回行われた「事業仕分け」が戦略的観点から見て如何に理屈の通らないものなのかは、GXロケットの例が端的に表しています。「仕分け」前半最終日、GXロケット廃止要求 - YOMIURI ONLINE
独立行政法人・宇宙航空研究開発機構が官民共同で取り組んでいる中型ロケット「GXロケット」に使用する液化天然ガス(LNG)エンジンの研究開発費について、予算計上を見送り、開発続行の是非を再検討するよう求めた。GXロケット開発そのものについても廃止を求めた。仕分け人はこの記事のように、LNGエンジン技術の研究開発費58億円を見送り、GXロケット本体の廃止を求めました。
しかし、GXロケットの開発は、H-IIA/B型ロケットがあれば行わないでいい、という性質のものではありません。
まず第一に、IHIの担当であったGXをただ単純に廃止することにより、日本のロケット産業がH-IIA/B型ロケットを生産する三菱重工1社の独占状態に陥ってしまうという問題があります。GXが単純に廃止されれば、液体燃料ロケット開発の人材は三菱に集中せざるを得ません。技術的な硬直や、ポジション不足による技術者の流出、さらには国内に競合が存在しないことで、将来的に費用見積もりの主導権問題も出てくるでしょう。
第二に、GXはH-IIA/Bと異なる推進系技術を採用している点を指摘します。一段目は海外製、二段目は世界初のLNGエンジンです。H-IIA/Bの液水液酸とは技術的な根幹が異なるため、H-IIA/Bロケットのプロジェクトに問題が生じた場合にも、中小型衛星の打ち上げ選択肢を確保できる可能性がありました。
プロジェクトとして問題が多く、コスト面での目標達成が困難なGXの企画を廃止することそのものについては政治の一つの選択として受け入れるべきですが、GXの企画に問題があったことをもって、GXという「H-IIA/Bとは異なる会社・技術による、中小型ロケット」の開発を必要とした理由がすべて消滅したわけではありません。GXに投入予定だったお金を「ムダが浮いた!」と言って子ども手当て等に使ってしまうのでは、そこを履き違えているという批判を免れ得ません。
例えて言うならば、通信教育教材を数ヶ月取って成果が上がらないからと言って、「ウチの子どもは勉強しなかった!この子は頭が悪いんだ!お金がもったいないからやめて私がヨガでも習おう!」という結論を出してしまうようなものです。この場合、通信教育で成果が芳しくないからと、家庭教師や学習塾などの他の選択肢を検討しないということは「子どもに高度な教育を受けさせる」という家庭の戦略的目標を放棄すること同義です。
「成果が出ないから止める」という判断と「何もしなくてよい」という判断を混同してはいけないのです。宇宙開発戦略本部による8月の「見解」では、GXプロジェクトそのものの見通しは否定していますが、同規模ロケットに対する需要の存在を否定しているわけではありません。
GX ロケットの今後の進め方について - 宇宙開発戦略本部
(2)需要の見通しについて
国内の衛星打上げ需要については、宇宙基本計画(平成21 年6 月2 日 宇宙開発戦略本部決定)を踏まえれば、非安全保障分野において、年に1 機程度の中小型衛星の需要が想定されるが、安全保障分野における需要については、次期中期防衛力整備計画の策定前の現段階において見通しを持つことは困難である。また、世界の衛星の商用ロケットによる打上げ需要については、COMSTAC(米国連邦航空局発表)などによれば、全世界の中小型衛星の需要として、10 機程度/年が見込まれており(別紙4 参照)、国内外の中小型衛星の潜在的な打上げ需要は存在するものと考えられる。
GXの単純廃止は「仕分け」作業という末端の事業可否の判断で、国家の宇宙戦略という大きな枠組みを破壊することになってしまいます。「浮いた」予算額を、「失敗作」であるGXで達成すべきだった戦略目標を達成するために使うのでないならば、まずは「主力と異なる技術・企業体による中小型ロケット開発」という戦略レベルについて要不要の議論をしなければならないはずであり、それは非専門家集団である「仕分け人」に任せるべき仕事からは明らかにかけ離れています。
私には、各個の事案に対する結論よりも、「戦略を揺るがす判断」が、「個別事業の意義を問う形」で行われる構造こそ「事業仕分け」の重大な問題点だと思えてなりません。
また、仕分け人はGXロケットに搭載されるLNGエンジンそのものの予算請求も見送りました。
行政刷新会議「事業仕分け」事業番号3-33 (独)宇宙航空研究開発機構①(GXロケット)
●「GXロケットの本格的着手を判断できる状況にない」ことから開発は中止すべき。「エンジンの研究」はロケット本体と別に開発する必要がない
●GXロケットの目途が立たない中では、開発する理由がない。エンジンを切り離しても需要がなければ開発後の事業化の目途が立たない限り予算計上は見送るべき。
とりまとめコメントこのLNGエンジン予算凍結についても、仕分け人の論理はデタラメと言わざるを得ません。LNGエンジン技術はGXロケットのためだけに生み出されたのではありません。むしろ将来性あるLNGエンジン実用化のステージとして、GXプロジェクトが推進されてきた面が大きいのです。低コスト商用ロケットとしてのポジションであるGXに、先端技術であるLNGを搭載しようとしたことが難航の原因という見解もあり、それには概ね同意できるのですが、それはLNGエンジンというプロダクトそのものが抱える問題ではありません。
エンジン開発部分については、一旦仕切り直したうえで、エンジン開発を進めることの意味があるのかどうかを、しっかりと検討する必要がある。結論としては、予算計上の見送りとする。GXロケットとしては廃止、エンジン開発については、続けることの意味があるのかを抜本的に見直していただくこととする。
LNGエンジンは数多の技術的メリットが明確でありながら世界のどの国も実用化できていない、先端技術です。そして、このLNGエンジンの技術において、現在日本はトップクラスのノウハウを持っており、世界でもっとも実用化に近いポジションにいます。
日本はLNGエンジン開発で世界のトップを走っている - nikkei BPnet
ーそこまで高く評価する理由はどこにあるのでしょうか。リークが少なく、衛星軌道上での長期間待機にも対応可能なLNGエンジン技術をモノにして実用経験を積めば、今後の宇宙開発で世界が必要とする先端技術を日本が手にし、宇宙産業の分野において多大な需要が期待できます。さらにHTV等の高く評価される技術と組み合わせることで、相乗効果が期待できる代物です。仕分け人はとりまとめコメントで「続けることの意味があるのかを抜本的
ヤン 世界初というところです。
メタンは、ロケットにとって有望な炭化水素系燃料です。液体にした場合の沸点はマイナス161.5℃、これは液体酸素のマイナス183℃よりもやや高く、液体水素のマイナス250℃よりも大分高いです。軌道上でも適当な断熱を行えば長期貯蔵が可能なので、メタンと液体酸素の組み合わせは再着火可能な上段ロケットや軌道間輸送機に使用できます。また、液体水素に比べると大推力が発生させやすいので、地上からロケットが上昇するためのブースターにも使えます。
最近「宇宙への迅速なアクセス」、すなわち打ち上げ需要が発生したらすぐに対応して打ち上げを行うという考え方が出てきています。LNGは液体水素よりもずっと扱いやすいので、宇宙への迅速なアクセスにも向いています。
に見直し」を求めていますが、「まだ誰も成功していないが、世界が必要とする技術」の最先端にいるJAXAに対し、実用化の意味を抜本的に見直せ、とはとんだお笑いぐさです。こうしたオリジナルの技術を政府が戦略に基づいて育成してこそ、税金を投入したことへの「収益・リターン」が生まれるのです。
【自爆】直感に甘え「戦略」を意識しない日本有権者
仕分け人は、議論の中で幾度となく「高すぎる」という言葉を使いました。また、日本の有権者がTV等のインタビューに答えて政府の支出についてコメントするとき、あるいは2ch等の掲示板で政府の支出を批判するときに「高すぎる」という表現が頻発することにお気づきでしょうか?この表現が使われる傾向は、科学分野にとどまらないと思うのです。しかし、そうした言葉が飛び出したとき、「高すぎる」という言葉の「すぎる」の比較対象が何なのか、といった質問を返すインタビュアーは、残念ながら見たことがありません。
すぎる、と言うからには、世界各国と比較でもしたのでしょうか?
自分の勤める会社ならば、幾らで実施できる、というような確固たる根拠があるのでしょうか?
おそらく、この「高すぎる」という漠然たる感覚。これが「国民目線」なのでしょう。「国民目線」で見て「高すぎる!」と直感したものを削るのが、仕分け人の役割なのでしょう。だからこそ蓮舫議員は、事業から「利益」を上げることにこだわるのでしょう。彼女にとって「高すぎる」かどうかの基準が、「そこから幾らの利益が上がるのか」だからです。そこからは、「戦略」という観点が完全に失われています。
政府の予算配分とは、国の生き残り戦略そのものを端的に表現するものでなければならないはずなのです。政府の予算は全体でこれだけです。そのうち、防衛に何パーセント、国民福祉は何パーセント、インフラ投資は何パーセントで科学技術に何パーセント使うことで、こんな繁栄を導きます、という説明を選挙に際して耳にしましたか?
この割合を議論する場は、その法的位置づけも曖昧な「事業仕分け」などではなく、国政選挙の場でなければならなかったのではないでしょうか。「政権交代」は、こうした配分の戦略を示し合って、その妥当性で争われるべきだったのではないでしょうか。
「財源は必ず見いだせます」の一点張りで成立した鳩山政権は今、「戦略」の具体的な議論を一切しないまま、「戦略」の存在を無視した予算削減劇を演じ、捻出した予算はその割り当てを破壊し、戦略的位置づけの不明確な「子ども手当て」実現のために使おうとしています。「聖域を作らない」という言葉は、一見すると革新的なように見えますが、そこに見いだせる現実は「政府として守るべき、確固たる戦略が存在しない」というだけなのです。
しかし、今、こうした政治が行われる責任は、現政権だけにあるとは思えません。
選挙に際し、有権者が戦略的な観点について興味を持たないから、こういうことになるのです。有権者が国家の戦略について、政治家にまともな議論を求めないから、こういうことになるのです。
どんな日本にしたい?という問いをシンプルな2択から選ぶことが、2大政党制最大のポイントのはずです。しかし、その2択がどちらもまばゆい、磨き上げられたものになるかどうかは、有権者の意識にかかっているということを意識しなければ、待つのは自爆です。
【欄外】戦略なき政権に、国民の声を届けよう
今回行われた「仕分け」について、文部科学省が国民からのコメントを求めています。行政刷新会議事業仕分け対象事業についてご意見をお寄せください
この事業仕分けを契機として、多くの国民の皆様の声を予算編成に生かしていく観点から、今回行政刷新会議の事業仕分けの対象となった事業について、広く国民の皆様からご意見を募集いたします。予算編成にいたる12月15日までに下記のアドレスまでメールにてお送りください国民が日本政府に対して求めるべきなのは、数字を削った実績ではなく、適正な国家戦略です。皆様からも声を伝えてください。
【シリーズ:自爆する日本】日米が対等でないという誤認、日米が対等になれるという無理
どうも、∋・ー・∈です。
間が大変空いてしまい、申し訳ありません。ここ2週間ほどは本業がわたわたが続いております。(今日も徹夜仕事明けなのですが、今書かないと機を逸するので書かせていただきます)
例えばメディアの報道や「米国追従」を批判するようなブログなどを見ていますと「日米年次改革要望書」を日本政府が「突きつけられている」と表現されることが非常に多いです。しかし、これは完全なミスリードです。日本政府と米国政府は「年次改革要望書」を相互に交換しており、例えば08年度、日本政府は米国政府に対し17分野に及ぶ改革要望書を「突きつけて」います。「対米要望書」の存在や、その履行について言及することなく「対日要望書」の存在そのものを問題視するのは、明らかにアンフェアな議論です。日米関係をめぐる批判には、こういう事例が非常に多いと言えます。
そもそも独立国家である日米の間に、「対等」でない関係はあり得ません。日米の相互に利益があるからこそのつきあいであり、お互いがもっとも重要な目的を達成するために、取引をしているのです。
日本政府が米国政府の経済面での要望に盲従しているから対等ではない、と主張するのならば、それは日米の関係が今の日本にとってそれだけの対価を払ってでも維持しなければならないものであることの裏返しに他なりません。
日本政府が弱腰なのは米国に安全保障を頼り切っているからだ、と主張するのならば、それは米軍の存在が今の日本にとってそれだけの対価を払ってでも維持しなければならないものであることの裏返しに他ならないのです。
たとえ米国が攻撃を受けても、憲法規定により日本は米国を軍事的に支援することができません。しかし、米国は対日攻撃の勃発に際して「集団的自衛権」を発動、同盟国日本を守るために戦う選択肢を持ち合わせています。
また、日本が現状の経済活動を維持するためには、領域警備だけにとどまらず、中東へ至る海路の安全、産油国の軍事的安定といった要素を欠くことができません。また憲法規定により、これらに問題が生じた際に軍事行動で解決することができません。したがって、同じ地域に権益を持つ米国の軍事力に期待するしか手がないのです。
このように日本は現状、米国の軍事力が存在することを前提として国家運営を行っています。したがって日米の同盟がある限り、軍事的な立場が「完全に対等」になることは、あり得ません。日本が憲法規定の縛りを維持したままでグローバルに動くならば、他国の安全保障政策に乗っかる形でしか国家を運営し続けることはできないからです。
ですが、そうした戦略的な恩恵を一方的に享受する関係を、より「対等」に近づけることはできます。すなわち、日本国が米国の同盟国として存在することの価値を高め、取引上の立場を改善するための努力です。
特に「対米追従」と批判された小泉政権以降の安全保障活動へのコミットメントこそ、米軍基地の「負担軽減」の要求を通しつつ、日米関係を安全保障面でも「対等」なものに近づけるために重要な取り組みに他ならなかったのです。「後方支援分野での人的貢献」というニーズに対し、適切なサービスを実行することで、交渉カードを確保する。自衛隊でも満足な後方支援活動が行えることを証明し、削減の軍事的合理性作ることでを在日米軍の規模縮小につなげる。これが、交渉事の基本的な姿勢だと思います。
しかし、鳩山民主党政権に変わったとたん、こうした姿勢の変化がリセットされてしまいました。
米国を中心に行われているアフガニスタンの軍事作戦から自衛隊を完全撤退させ、よりによって自国軍の警衛なく陸上に民間人を送り込むことで、地上部隊の負荷を増やそうとしています。
仮に現地で、米軍が日本の民間人を守るため戦闘を余儀なくされた場合、何が起きるのでしょうか。給油活動が継続されていたならば、後方支援という軍事的活動への参加をもって、日本も「戦闘」の責任の一翼を担っていたことになりますが、現状で民間人のみを派遣するのでは、彼らを守るための「戦闘」によって生じる憎しみはすべて米軍に、支援活動による感謝はすべて日本に、という形になってしまいかねないのです。
これは「対等な日米関係」を主張する一方で、同じリスクと同じリターンを共有しようとしない矛盾する行為と指摘でき亜mす。
また、「沖縄の負担(基地面積)を減らしたい」という日本政府の要望を叶えつつ、軍事的合理性を踏まえて政府間で合意したはずの普天間基地移設問題は岩礁に迷い込み迷走、海兵隊の一部グアム移転プランなど、伴って進むはずのプロジェクトを混乱させています。
日本政府は今やこの問題で、米国に対してまともな取引をすることができていない状況です。政府は普天間基地の県外移設や嘉手納統合など、軍事的合理性から過去に否定された案ばかりを出して、相手を呆れさせています。
「ダメな政府だ」と見られているだけならば、まだマシかもしれません。政府のこうした行動は、相手の立場から見れば日米同盟そのものの存続を人質に取ることで、米政府から大幅な譲歩を引き出そうとしていると思われても、不思議ではないのです。
もしそうだとしたら、これは危険な賭です。グローバルストライク能力を確保した米軍にとって、前進基地としての日本の軍事的価値は依然高いものには変わりありませんが、以前のように最重要のピースではなくなっています。まして失業増にあえぐ米国の現状を考えると、日本政府との交渉を止めて同盟を終結、本土軍備増強や海軍軍備の大幅強化の理由を得て雇用問題解決を狙う、そんな選択があり得ないとも言い切れないのです。
日本政府は無い物ねだりの駄々っ子のごとく一方的に、素人のごとく程度の低い提案をアメリカにぶつけています。場合によっては、安全保障の新たな枠組みを持たぬままでの日米同盟の終結という「盛大な自爆」へ向かってもおかしくはありません。しかし、海外から見ればその状況は「日本国民が望んで選択した」姿に他ならないのです。
間が大変空いてしまい、申し訳ありません。ここ2週間ほどは本業がわたわたが続いております。(今日も徹夜仕事明けなのですが、今書かないと機を逸するので書かせていただきます)
シリーズ:自爆する日本 について
この記事から、新しいシリーズを開始します。「政権交代」以降の流れを見ていて、一つのキーワードが明白に浮かび上がってきました。それは「自爆」です。この「自爆」の様子を様々な分野について追うことで、今の政治の問題を描いていこうと考えています。日米関係を「対等でない」と捉える認識の問題
日米の関係が「対等ではない」と考える人は結構多いと思っていますが、そうした批判は具体性に欠ける、印象論のように思えます。例えばメディアの報道や「米国追従」を批判するようなブログなどを見ていますと「日米年次改革要望書」を日本政府が「突きつけられている」と表現されることが非常に多いです。しかし、これは完全なミスリードです。日本政府と米国政府は「年次改革要望書」を相互に交換しており、例えば08年度、日本政府は米国政府に対し17分野に及ぶ改革要望書を「突きつけて」います。「対米要望書」の存在や、その履行について言及することなく「対日要望書」の存在そのものを問題視するのは、明らかにアンフェアな議論です。日米関係をめぐる批判には、こういう事例が非常に多いと言えます。
そもそも独立国家である日米の間に、「対等」でない関係はあり得ません。日米の相互に利益があるからこそのつきあいであり、お互いがもっとも重要な目的を達成するために、取引をしているのです。
日本政府が米国政府の経済面での要望に盲従しているから対等ではない、と主張するのならば、それは日米の関係が今の日本にとってそれだけの対価を払ってでも維持しなければならないものであることの裏返しに他なりません。
日本政府が弱腰なのは米国に安全保障を頼り切っているからだ、と主張するのならば、それは米軍の存在が今の日本にとってそれだけの対価を払ってでも維持しなければならないものであることの裏返しに他ならないのです。
日米が対等になれない「安全保障」の領域
一方、日米がどうやっても対等な立場にはなれないのが、安全保障の分野です。たとえ米国が攻撃を受けても、憲法規定により日本は米国を軍事的に支援することができません。しかし、米国は対日攻撃の勃発に際して「集団的自衛権」を発動、同盟国日本を守るために戦う選択肢を持ち合わせています。
また、日本が現状の経済活動を維持するためには、領域警備だけにとどまらず、中東へ至る海路の安全、産油国の軍事的安定といった要素を欠くことができません。また憲法規定により、これらに問題が生じた際に軍事行動で解決することができません。したがって、同じ地域に権益を持つ米国の軍事力に期待するしか手がないのです。
このように日本は現状、米国の軍事力が存在することを前提として国家運営を行っています。したがって日米の同盟がある限り、軍事的な立場が「完全に対等」になることは、あり得ません。日本が憲法規定の縛りを維持したままでグローバルに動くならば、他国の安全保障政策に乗っかる形でしか国家を運営し続けることはできないからです。
ですが、そうした戦略的な恩恵を一方的に享受する関係を、より「対等」に近づけることはできます。すなわち、日本国が米国の同盟国として存在することの価値を高め、取引上の立場を改善するための努力です。
特に「対米追従」と批判された小泉政権以降の安全保障活動へのコミットメントこそ、米軍基地の「負担軽減」の要求を通しつつ、日米関係を安全保障面でも「対等」なものに近づけるために重要な取り組みに他ならなかったのです。「後方支援分野での人的貢献」というニーズに対し、適切なサービスを実行することで、交渉カードを確保する。自衛隊でも満足な後方支援活動が行えることを証明し、削減の軍事的合理性作ることでを在日米軍の規模縮小につなげる。これが、交渉事の基本的な姿勢だと思います。
【自爆】矛盾する主張、壊れる関係
このように、日本は必ずしも対等とは言えなかった安全保障の分野において、米国の人的負担やリスクを分担する形でこの分野を改善しようと努力してきました。それは日米関係を真に対等な立場へと推し進めるための重要な取り組みであったと言えます。しかし、鳩山民主党政権に変わったとたん、こうした姿勢の変化がリセットされてしまいました。
米国を中心に行われているアフガニスタンの軍事作戦から自衛隊を完全撤退させ、よりによって自国軍の警衛なく陸上に民間人を送り込むことで、地上部隊の負荷を増やそうとしています。
仮に現地で、米軍が日本の民間人を守るため戦闘を余儀なくされた場合、何が起きるのでしょうか。給油活動が継続されていたならば、後方支援という軍事的活動への参加をもって、日本も「戦闘」の責任の一翼を担っていたことになりますが、現状で民間人のみを派遣するのでは、彼らを守るための「戦闘」によって生じる憎しみはすべて米軍に、支援活動による感謝はすべて日本に、という形になってしまいかねないのです。
これは「対等な日米関係」を主張する一方で、同じリスクと同じリターンを共有しようとしない矛盾する行為と指摘でき亜mす。
また、「沖縄の負担(基地面積)を減らしたい」という日本政府の要望を叶えつつ、軍事的合理性を踏まえて政府間で合意したはずの普天間基地移設問題は岩礁に迷い込み迷走、海兵隊の一部グアム移転プランなど、伴って進むはずのプロジェクトを混乱させています。
日本政府は今やこの問題で、米国に対してまともな取引をすることができていない状況です。政府は普天間基地の県外移設や嘉手納統合など、軍事的合理性から過去に否定された案ばかりを出して、相手を呆れさせています。
「ダメな政府だ」と見られているだけならば、まだマシかもしれません。政府のこうした行動は、相手の立場から見れば日米同盟そのものの存続を人質に取ることで、米政府から大幅な譲歩を引き出そうとしていると思われても、不思議ではないのです。
もしそうだとしたら、これは危険な賭です。グローバルストライク能力を確保した米軍にとって、前進基地としての日本の軍事的価値は依然高いものには変わりありませんが、以前のように最重要のピースではなくなっています。まして失業増にあえぐ米国の現状を考えると、日本政府との交渉を止めて同盟を終結、本土軍備増強や海軍軍備の大幅強化の理由を得て雇用問題解決を狙う、そんな選択があり得ないとも言い切れないのです。
日本政府は無い物ねだりの駄々っ子のごとく一方的に、素人のごとく程度の低い提案をアメリカにぶつけています。場合によっては、安全保障の新たな枠組みを持たぬままでの日米同盟の終結という「盛大な自爆」へ向かってもおかしくはありません。しかし、海外から見ればその状況は「日本国民が望んで選択した」姿に他ならないのです。